某日>新聞のページ数がどんどん減ってきているので、記事の量と購読料金の変化を生成AIで調べてみました。僕の購読紙は毎日新聞です。
1970年は約900円だったそうです。現在は4900円ですから購読料は5.4倍になっています。ところが1970年頃は僕の記憶実感では朝刊32ページ、夕刊16ページの計48ページでしたが、現在は朝刊22ページ、夕刊8ページの計30ページで62.5%になっています。(ページ数は日のよって違いますが、だいたいはこれらの数字です。)
となると、5.4÷0.625=8.64で8.64倍の値上げとなります。そして、①記事の文字のポイント(大きさ)が大きくなった。②見出しが大きくなった。③写真や図表が増えて、その大きさも大きくなった。④広告が増えた。などを考え合わせたら15倍ほどになったのではないかと想像します。
ちなみにこの間の値上げをいくつか調べたら、男性の散髪代は約5.7倍、封切り映画館は約3倍、大阪府の銭湯大人料金は約16倍、国家公務員の大卒者初任給は約6倍でした。当たり前ですが、物価は全てのものが同じ割合で上がるのではなく、人件費・設備費・利用者数の変化などによって上がり方が大きく違ってきます。
毎日新聞では社員数が約半分になって、発行部数は1/4ほどになっているようです。かつてと同様の記事量を書くのが無理なのは理解できますが、だからこそ内容の充実した記事を書いてほしいのです。
僕は、すぐに夕刊を全ての都道府県で廃止して全国を統合版にする。(これで購読料は下がります。) そして、政府に忖度しないジャーナリストである社員を育てて読ませる記事を増やしていくのが、新聞の生命線だと思っています。現在の新聞・テレビのマスコミ各社にはコメンテーター(解説者)ばかりでジャーナリストがすごく少ないように感じます。社会を良くするために全身全霊で誠実な仕事をするジャーナリストを見てみたいのです!
某日>YouTubeで「無印良品のミディアムの珈琲豆が美味しい!」といろんな人が語っているのを見ました。早速購入して、抽出して飲んでみました。豆200gが税込950円でした。味は普通でした。ただ、飲んで少ししたらブラジル珈琲豆の味が後追いしてきました。そこが少しマイナスかなあと思いました。ブラジル珈琲が不味いのでは無く、その味が調和を崩しているのが良くなかったのです。ブラジルの比率を下げたら良くなるのかもしれません。
某日>子ども出版の2人が僕の誕生日祝いの昼食会をしてくれました。大好きな鯛の大きな尾頭付き(おかしらつき)やお寿司、そしてこれも大好きな赤飯などを楽しくおしゃべりしながら美味しく食べました。
もう72歳です。28年前の12月に母が亡くなったのが72歳と4カ月弱でした。母より先に死んだら親不孝な気がするので、母よりは長生きしたいと思ってきました。ということで、僕は今年の8月6日を迎えることを目標にしてきたのでした。あと少しです。
某日>72歳になったということは、小学6年生の時にヒロシマのことを作文に書いてから60年ということになります。それは1966年のことですが、僕は1962年の映画『その夜は忘れない』(吉村公三郎監督)という若尾文子が被爆者の役をした作品を映画館で観たのを覚えているので、封切館でなかったとしても小学2年生か3年生の頃からヒロシマを意識し始めたのだと思います。
それからずっと原爆が落とされたヒロシマに関心を持ち続けて、歌を自作して歌ったり、写真を撮りに広島へ行ったり、原爆詩を書いたりしてきました。
2011年8月6日には、広島のマツダスタジアムでの試合前セレモニーで僕の詩「8月6日」が朗読され、来場者約3万人にその詩が書かれたポストカードが配られました。2015年8月には原爆ドーム前に一人で立って、4日間に1000人の来観者に原爆詩などを書いたヒロシマペーパーを手渡しました。2024年5月にも原爆ドーム前に一人で立って、来観者に話をしながら4編の原爆詩を書いたペーパーと原爆ドームの夜景を撮影したポストカードなどを手渡しました。
僕は60年以上、ヒロシマを命と人生を考えるときの原点としてきました。僕なりに精いっぱい真剣に向き合ってきましたが、広島の多くの人々が本気で平和を願い、平和のために自分のできることをしているとは思えないのです。①昨年までの14年にわたって新規採用職員研修で『教育勅語』を活用してきた市長を市民の多くが容認してきたり、②長年平和教育教材として活用されてきた漫画『はだしのゲン』を2023年度の教材改訂で削除した市教育委員会にその撤回をさせなかったり、③広島市と広島県の平和教育担当者や教育関係者から僕の原爆詩の活用を申し出られたことはたった一度しかありませんでした。本当に残念です。
僕は今年も5月に広島へ行き、原爆ドーム前でヒロシマとナガサキのことを書いた原爆詩7編をプリントしたペーパーなどを来観者に話をしながら手渡しするつもりです。
僕は貧乏詩人ですが、今回も自分で新幹線の乗車券を買って、ホテル代を出して、手渡しするポストカードの印刷代を出しています。ということで、年寄りだし経済的余裕も無いので今回の広島行きが最後になります。
広島のどなたからもどこからも、ヒロシマの詩を書く詩人として僕が広島に呼ばれることは一度もありませんでした。しかし、ヒロシマを常に心に置いて生きている僕をヒロシマはずっと優しく包んでくれていましたし、優しく励ましてくれていました。そのおかげで昨年「ヒロシマ、ナガサキの詩7編」を完成させました。この7編で僕の原爆詩はまとまったと思っています。ですから、今まで60年以上にわたる感謝の思いをヒロシマに伝えるためにもう一度広島へ行く決心をしたのです。
亡くなった父は陸軍暁部隊の隊員として、原爆投下後に野戦病院となった似島(にのしま)の旧陸軍検疫所か赤レンガ倉庫と呼ばれる旧広島陸軍被服支廠のどちらかか両方かへ被爆者を運んで行ったはず、と僕は思っています。最後の広島行きなので、2024年には被服支廠へ行ったから、今回は似島へ行けたら行ってみようと思っています。
某日>3月の初めに原稿をお送りして『髙木いさお全詩集』の出版をお願いした出版社から、段ボール箱で原稿がかえってきました。お送りした1031編の詩の一言感想も無しの返却でした。
僕は24歳で結婚した直後にこの出版社の雑誌を購読し始めました。病気で退職して経済的に苦しくなったので購読はやめましたが、それまでにはその出版社が発行する料理本やエッセイ本を我が家のためや友人へのプレゼント用に10冊以上は購入しました。そしてしばらくは読んでいなかった雑誌を図書館で借りて読んだりするようになりました。
この出版社が、「戦争に反対し、心豊かな暮らしをしましょう!」ということで始まった会社だったから、僕は約50年前から支持し続け、約20年前からはいつか僕の詩集を出版していただこうと願い続けてきたのでした。僕の詩を読んでいただけたらきっと「出版しましょう!」と言ってもらえると思っていました。出版が決まったら東京へご挨拶しに行くつもりだったので、そのときの手土産も決めていたほどです。
本当に85%から90%は大丈夫だと思って楽しみにしてご返事を待っていたのです。それなのに読んだという形跡もない返却でした。どう考えても、出版社を起業したときの思いは無くなったようです。残念です!
僕は、他者に暮らし方や生き方を示そうという作品(もちろん雑誌もです)には、まず自らの志が大事だと思います。志が欠如した作品はただの商品でしか無いのですから。
いつか原点に帰られることを願っています!